寺院概要

多宝院の前身は、常陸国河内群大串村字寺山に在った。開創は建永年間(一二〇六)で開山は嵬天和尚であったと伝えられている。寺山と云う所は大宝八幡神社の南方三町ほどに在る小丘陵で、ここは多賀谷公の所領に属し、西南は大宝沼に面していた。
時に少伝和尚ここに住していた或る日、天文年間(一五三五)下妻城主三代の多賀谷左近大夫家植公は一日遊船の因みに当寺に少憩された。その折小宴を張り、家植公は戯れに小魚を箸にして和尚に勧めた。和尚躊躇せずそれを口にするや、公曰く「五戒を持すべき沙門の人、魚介を喰ふは如何に。」と、和尚曰く「願わくはその盃洗を貸し給へ。」とその盃洗中に銜みし魚を噴するや小魚潑刺として渕に羅る有様であった。和尚曰く「之を以て貴待下に返上す。」と公その器の凡ならざるを識り深く禅門に帰依し、当寺を城域に移転し境内三万三千四百十二坪を寄進して伽藍を建立した。現在の境内がそれであり、南北百間、東西四十五間即ち一町五反余であったことがわかる。以前の宗派や寺名は明らかでないが、家植公の法名「多宝院殿龍山祥潜大居士」を以て、潜龍山 多宝院と称し少伝宗誾和尚を開山とするに至っている。
少伝和尚は美濃の生まれで早歳に出家して諸方の知識を訪ね総州の乗国寺に仲明栄主和尚を尋ね師弟の機縁を結んだ。而して少塙の乗国寺を本寺としている。少伝宗誾和尚の道声は頓に上り門風益々繁茂して枝葉の末寺は十有余りに及んでいる。即ち、

茨城県 北相馬郡 布川町 來見寺    真壁郡  関本町 万年寺
    結城郡  豊田村 龍心寺    真壁郡  上妻村 正法寺
    真壁郡  上妻村 長昌院    真壁郡  下妻町 林翁寺
    真壁郡  下妻村 覚心院    筑波郡  小張村 高雲寺
    筑波郡  板橋村 永寿院    
栃木県 上都賀郡 栗野町 妙見寺    上都賀郡 永野村 長谷寺
等がある。(旧町村名)

当山第四世獨峰存雄和尚は歴住の中でも一異彩を放った住職である。
正親町天皇は、師の道声を聞こしめされ詔して道を問い戒を説かしめ給う時悉く叡慮に合ひ、諸大臣等も帰依せざるはなかったと云う天正十年夏勅して大光仏国禅師を賜った。
尚、禅師を開山とする末寺は、來見寺、万年寺、覚心院、妙見寺がある。
十一世洪山和尚の時、徳川三代家光公は日光御社参りの砌り筑波山へ参拝されている。この時当寺に宿泊の事があり、寺中に大献院御休みの書院が設けられた。ここに於いて御朱印を賜っているが、境内其の他で十町三反四畝廿六歩であったことが記されている。
幾世代を経て廿七世梅叟玄蘂代、幕末に起こった尊皇攘夷をめぐる騒動の時、水戸藩の中の過激派は天狗党と称して筑波山に挙兵し、各地に呼びかけて結集したが、略奪、暴行、放火を繰り返したので孤立してしまった。この時幕府の本陣が多宝院に置かれていたため、天狗党により焼き討ちにあってしまった。時に元治元年七月のことであった。寺宝、古文書等総て灰燼に帰した事は残念である。
多宝院三十七世廓然善道大和尚代作成「潜龍山 多宝院略史」

このエントリーをはてなブックマークに追加