多宝院の前身は宗派、寺名ともに明らかではないのですが、「常陸国河内群大串村字寺山」にあったとされ、開創は建永年間(1206)、御開山は嵬天和尚であったと伝わっています。「寺山」という地区は大宝八幡神社の南方三町ほどにある小丘陵であり、ここは下妻地域を治めていた多賀谷公の所領に属し、西南は大宝沼に面していました。
天文年間(1535)、下妻城三代目城主の多賀谷左近大夫家植公は当時の住職であった少伝宗誾和尚と出会い深く帰依し、現在の地域に伽藍を建立の上、境内三万三千四百十二坪を寄進しました。その時より家植公の御法名「多宝院殿龍山祥潜大居士」を以て、寺名を「潜龍山 多宝院」と称し、少伝宗誾和尚を御開山としています。なお、少伝宗誾和尚は美濃の生まれで早歳に出家し、結城の乗国寺住職であった仲明栄主和尚を尋ね師弟の縁を結んだため、当院は結城の乗国寺を本寺としています。
幾世代を経て当山第二十七世梅叟玄蘂和尚代、幕末に起こった尊皇攘夷をめぐる騒動の時、水戸藩の中の過激派が筑波山で挙兵しました。【天狗党の乱】天狗党は各地に結集を呼びかけたが、略奪、暴行、放火を繰り返したため孤立し、幕府より追討令が出されました。その際、天狗党討伐のための幕府本陣が多宝院に置かれていたため、天狗党に襲撃され焼き討ちにあってしまいました。時に元治元年(1864)七月のことでした。その際、寺宝、伽藍、古文書などすべて灰燼に帰し焼失してしまったことが悔やまれます。
以降しばらくは境内が荒廃した時期が続きましたが、明治40(1907)年、民家を購入し仮本堂として再建の第一歩を踏み出し、当山第三 十七世廓然善道和尚代、平成3(1991)年、本堂を再建し現在に至っております。